中国で勤務していた時(2002~2006年)の同僚SBさんが、2011年に会社を辞め石巻で家業を継いでいる。ずっと年賀状だけの交流だったが、ボクが退職し遊び人になったこともあり、SBさんからご招待を受けて会いに行った。
良い機会なのでずっと思っていた、3・11東日本大震災の遺構を見学させてもらった。
再会
8月26日(火) 高級料亭「景松庵」にて会食、17年ぶりくらいだろうか。SBさんは地元企業の社長さん、あのときと同じように柔和で落ち着いた人柄は変わらず、加えて組織のボスらしい貫禄もあり、地域の貢献と社員の幸せを考える理想の経営者となっていました。ここの女将さんはSBさんの中学校の先輩。


石巻南浜津波復興祈念公園

8月27日(水) SBさんが石巻市内を案内してくれました。
石巻市は3・11の震源に一番近い都市で、その被害は際だって大きい。この真っ新で広大な記念公園は、元は住宅地だったところで、津波で完全に破壊された跡地である。

若い頃を長崎で過ごした筆者じろーごろーは・・
観光で長崎に来た方には、最初に原爆資料館へお連れしていた。原爆を知らずに長崎は語れない、そういう一念があった。そして長い間の海外生活後、日本中を旅したいと帰国・退職したボクは、同じようにまずは”3・11”を知らなくてはならないと思っていた。


犠牲者のお名前が並ぶ慰霊碑、SBさんのおばあちゃんのお名前も見せてもらった。
ただの散歩かと思えた年配男性がここに来て、ある名前プレートに手を置き、強い日差しの中でしばらく佇んでいらっしゃった。そして・・ポツンと手向けられているこの花を見ても、震災は終わっていないことを知った。

みやぎ東日本大震災津波伝承館

公園内にある伝承館、映画を見た後、係の方が丁寧に説明してくれた。


門脇小学校

この門脇小学校では、訓練通りに裏の日和山に『逃げて』全員が無事だった。ただ校舎は3日間燃え続けた。石巻の町全体を飲み込んだ津波を受け止める場所に建つ校舎には、浮遊するガソリンやガスが集まってしまい、長い間燃えることとなる。
ここは長渕剛さんが紅白で「ひとつ」を歌った校庭


女川原発

女川原発が見える絶好のポイントに案内してもらった。新たに出来た防潮堤で原発は完全に隠れて見えなくなっている、まあ当然ですよね。海がとてもきれいだった。
女川原子力PRセンター


電気は、もはや人類が生きるために必要不可欠なモノで、食料と同じレベルになっている。なので人類は、原発と『かしこく』付き合うしか無いとボクは思う。
先の大地震で、なぜ、福島原発で問題が起き、女川原発は大丈夫 だったか図解で比較説明していた。発電所を維持するのに電気が必要というのも、ちょっとどうだろうかと思うが・・。


道の駅おながわ

女川の町はとってもきれいに整備されていた。昔の町の面影は一切なくなっているらしい。


鉄筋コンクリートの基礎を引きはがすとは、津波のエネルギーの大きさはすさまじい!
道の駅おがつ

入り江全体が、まるで要塞のような高くて白いコンクリートの防潮堤でぐるっと囲まれている。
大川小学校

海から5キロも上流でここは内陸部、なのに2階以上の高さの津波が押し寄せて来たとは信じがたい。当時学校には児童78人(内犠牲は74人)、教師11人(内犠牲は10人)、学校の管理下では最も痛ましい結末となった場所。なぜ避難しなかったのか、が問題視され裁判も起こされている。

大川小学校の伝承館は閉館日だったが、ある語り部さんのグループが居て、そこから手招きされ迷わず合流させてもらった。語り部さんは教師で娘さんが犠牲者、聞き手は四国から来られた教師さん達だった。
お話しは衝撃的だった
・地震発生から津波襲来まで約50分もあった。その間児童は校庭に整列させられていた。
・児童や教師の何人かは、自主的(勝手に?)に裏山へ避難したが、戻された(ようだ)。
・11人の教師達はその間、どうするかをずっと議論していたのだろうか?
・校庭整列の間、強い余震が続き防災無線やサイレンは鳴り響き、不安でパニックになった児童も居たはず。
・先生達は、泣き叫ぶ児童を抱きしめなぐさめるのに忙しかったはず。教師なら誰もがそうする。
・校庭整列から、ようやく避難を決断開始したのは、津波が押し寄せる1分前。
・しかし避難は山では無く津波が来る方へ逃げ、しかも狭い門を一列で通らなければならなかった。
・6年生から避難し、ただなぜか行き止まりの路地を目指した。そこに高さ6mの津波がやってきた。
・その整列した校庭と避難方向の場所に実際に立ち、上記を想像、どんなに怖かっただろう!
・(生存者のことや様々な裏話も聞いたが、ここに記さない)

校庭から裏山を見た写真。授業でこの山に登り町を見学したり、椎茸狩りをやったりと山に入る経験は充分にあった。青矢印部分は山中ながら平坦地、ここまで逃げるのはいとも簡単。

以下が大きな疑問と問題だろう。
ーー50分もの間何をしていたのか?
ーーなぜすぐそばの裏山への避難の決断が下せなかったのか?
ーーなぜ山とは逆方向に避難したのか?
個人的意見では、組織の行動を決するリーダーの不在、あるいはリーダーの資質不足、最悪だがありがちなリーダー間の個人的確執やこだわりのせい? と思ってしまう。がこれはジャンケン後出し意見ですな、自分がその場にいたら・・出来るわけ無い。
語り部さんは、
ーー未曾有の大地震では誰もが正確な判断を下せるとは限らないーー
だからこそ
ーーマニュアル化しておく、地震が来たら山に避難すること これを決め周知し訓練しておくーー
たったこれだけをやっていなかったから。
津波伝承館でも同じことを言われた。
『地震が来たら逃げる』

ここでも大きな基礎柱がぽっきり折れている、他にもコンクリート製の2階床が破損するなど、津波の破壊力はすさまじい。そしてほとんどが海方向に倒れている、つまり引き波の方が力がすごいのだ。
日和山

この高台に多くの人が避難した。ここから撮影された津波襲来の映像はあまりに有名。結構高い山で健常者でなければ登れないと思う。


今回学んだことは、とにかく逃げること。
ボクは自宅で被災した場合の対策はバッチリ決め準備しているが、外出先での被災、子供達の場合、などを決め周知しておくべきとカミさんと話した。
思い出

2日目の夕食は、SBさんの中学の友人がやっているお寿司屋さんで。とても気さくな大将で、後半はほとんど大将がしゃべっていた。生死にかかわるような震災体験だから、話し出せば止まらないのは当然だよね、翌日カミさんと話した。

SBさんの会社にて、カミさん同士は上海以来で20年ぶりか、それでも話し出せばお互いすぐあの頃に戻って、とっても楽しかったそうです。今回は大変お世話になりました。次回は家族ぐるみで会いましょう!



石巻市は、石ノ森章太郎の作品を活かした街づくりを進め、「マンガの国」として知られる、石ノ森萬画館もある。

夕方の石巻市内をSBさんと眺める。
地元の方に案内してもらえば、濃く深く有意義な旅になる。震災遺構には深い感銘を受けた。「貴重な体験をした」がここでは穏当なセリフだろう、
ーでも誤解されても良い 「見られて良かった」ーー
が偽ざる本心だ。カミさんも同じ気持ちだろう。
『地球は生きている』
我々はその地球に住んでいる、そして我々は生きている地球に逆らうことは出来ない、それをまざまざと見て感じた旅でした。
今回のルート
高速道路のドラ割:東北観光フリーパスを購入した。(3日間 10,700円)
8月26日(火)往路
あきる野IC11:00~石巻南浜IC17:20、常磐道を通ったら以外に時間がかかった。479km
8月28日(木)復路
石巻IC9:20~あきる野IC15:30、東北道を使った、通行量は少なく快適だった。428km
全行程の燃費 25.5km/l
<終わり>
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